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【アニマル・ライツ】④ピーター・シンガーとトム・リーガンの【動物の権利】

愛玩動物飼養管理

【動物の権利】って、実にややこしい。
どちらも同じ【動物の権利】を主張しているだけなんだけど、ね。

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 それぞれが主張する「動物の権利」

ピーター・シンガーが書いた【動物の解放】は、
動物の権利運動が広がる火付け役となって、現在でも動物権利運動のバイブルとなっている。

宇宙-sora-
宇宙-sora-

というのは、この前で話したとおり。

でも、ピーター・シンガーは、
「動物と人間は平等に配慮されるべき」と主張しているけれど
「動物は生まれながらに権利が存在する」とは、実は言っていないんだ。

ところが!

ピーター・シンガーと同じように「動物の権利運動」の倫理的指導者とみなされている
アメリカの「ノースキャロライナ州立大学哲学名誉教授」トム・レーガンは、
1983年に出版されたThe Case of Animal Rights(動物の権利の根拠)

動物を「人間が利用するために存在する資源」とみなすような

〇 商業的な畜産
〇 科学における動物の利用(実験)
〇 スポーツや楽しみのおける動物の利用

そんなシステム全体に・・・これら全てに反対し

動物は、
生まれながらにして固有の価値があって
生きる権利を持っているのだから、
たとえ苦しみや痛みを与えないとしても、動物を殺すことは出来ない!

「動物は権利を持っている」とはっきり主張して、
ピーター・シンガーたち、功利主義者と論争も行っているんだ。

トム・リーガンの「動物の権利」

この論争は同じ「動物の権利」を主張しているのに
「功利主義 VS 権利論」として表現されて、

宇宙-sora-
宇宙-sora-

ちょこっと「ややこしい状況」になっているらしぃんだ。

動物の【道徳的地位】【道徳的権利】をめぐる
「功利主義者」「権利論者」主張の【共通点】と【相違点】

このお話を書くときに
いろいろ読んでいるなかで、一番面白いと想ったサイト。
「道徳的動物日記」に書いてあった例を紹介するね。

まずは、功利主義者と権利論者の主張の中で、
【動物は道徳的地位を持つ】という考え、想いは一緒。

猫が【道徳的地位】を持つ、持たないとき

これはね、ボクたち「猫」を題材にした具体例なの。

猫が道徳的地位を持たない場合

◇ 人間の飼い猫 → 飼い主にとっての観点から間接的に、道徳的配慮の対象となる場合がある。
たとえば、飼い主Aが友人に、「海外旅行に行っている間に猫の世話をしてくれ」と約束して、
友人Bが承諾したなら、
猫はBにとって「Aとの約束を守る」という道徳的義務のために配慮される。

◇ 野良猫 → その野良猫のことを気にかける人が存在しないなら、猫は道徳的配慮の対象となりえない。
誰かがその野良猫を虐待して殺したとしても、
その行為で他の人間に誰にも迷惑をかけないなら、その行為は道徳的な問題とならない。

猫が道徳的地位を持つ場合

◇ 人間の飼い猫 → 飼い主にとっての観点のみならず、飼い猫自身の観点によっても、
道徳的配慮の対象となる。
Bは「Aとの約束を守る」という道徳的義務のみならず、
Aの飼い猫そのものに対しても義務を負う。

Aも、自分の飼い猫だからといって好き勝手に扱うことはできず、
飼い猫自身の幸福や利害に配慮しなければならない。

◇ 野良猫 → その野良猫のことを気にかける人が存在しないとしても、その野良猫自身の観点から、道徳的配慮の対象となる。
誰かがその野良猫を虐待して殺すことは、
その行為で他の人間に誰にも迷惑をかけないとしても、
その野良猫にとって危害であるから、その行為は道徳的な問題となる。

参考サイト:道徳的動物日記

人間にとっても、ボクたち猫にとっても【虐待される】ということは「危害」になることだし
人間と猫の両方が【虐待されないこと】についての「道徳的地位を持っている」

・・・というのは、納得できるよね。

じゃぁ、今度は「選挙で投票する」ということを例にしたら?

現代の民主主義の中で生きる人間が、
投票することで政治に参加できるということは、責任ある「市民」として生きてる
という意味のあることで、

「選挙に参加できるかどうか」
というのは、人間にとっては、ものすごく大事なコトだよね。

もし「選挙権」を取り上げられたら、
それは人間として認められてない。と言っても過言ではなく・・・

宇宙-sora-
宇宙-sora-

おおげさ、かな

だから人間が「選挙で投票すること」ということは道徳的地位がある。
ということ。

ちゃっとん
ちゃっとん

じゃぁ、ボクたち猫は?

どこの国でもボクたち「猫」は、選挙で投票するっていうことはないし、
政治に参加することもない。

責任ある「市民」として生きることもない。

選挙で投票できるかどうかなんて、ボクたち猫が生きていくうえではどうでもいいコトだから、
猫が「選挙で投票すること」という例えの中では、道徳的地位があるとは考えられないし

宇宙-sora-
宇宙-sora-

無意味だよね

つまり、功利主義者と権利論者の主張の中で、
「動物は道徳的地位を持つ」ということでは同じ意見なのに

宇宙-sora-
宇宙-sora-

「どれほどの道徳的地位がある」か?

ということでは異なる意見になっちゃうんだ。

ん~・・・・。

功利主義者の主張

ピーター・シンガー(功利主義者)は人間でも、動物でも、

平等に配慮されてるなかで、もしそこに「正当な理由」があるのなら、
苦痛を与えたり、殺しちゃうことは致し方ない。

という考えを持っているんだ。

宇宙-sora-
宇宙-sora-

次は有名な?トロッコのお話。

Aの線路には5人、Bの線路には1人いて、そこに暴走したトロッコが突っ込んでくる。
このまま行けば、5人がいるAの線路に突っ込んでいく。でも、スイッチを切りかえればトロッコはBの線路に。Bの線路には1人いるけれど、このままAの線路に突っ込ませて5人が死ぬと考えれば、
Bの線路に切り替えれば1人の命の犠牲で済む。

5人を助けるためなら1人を犠牲にすることは、その殺害を容認できる正当な理由だっていうんだっていうお話。

宇宙-sora-
宇宙-sora-

でも本当に、そうなんだろぅか・・・?

動物実験だって、そうだよね。

100匹のマウスの命が犠牲になることで、
1,000人、10,000人の人間の「病気」を治す新薬が【確実に】作れる。

「作れるかもー」 じゃなくて「確実に作れる」んだ。

マウス100匹の命の犠牲によって、
1,000人、10,000人の人間を助けることができる。

でもマウスの犠牲がなければ、その人間を助けることができない。

宇宙-sora-
宇宙-sora-

だから、
マウス100匹が実験で苦しむのは仕方ない
よね。

というのは、マウスの命を犠牲にすることを容認する正当な理由だ。っていうんだ。

つまり「どちらの答え」を選んでも
「道徳的地位を持つ存在」、人間や動物が危害を受けることが避けられないのなら、
その被害を出来る限り少なくして「最善」の結果にしなければならない。

というのがピーター・シンガーたち「功利主義者」の主張らしいんだ。

でも、トム・レーガン(権利論者)はその主張を否定して

人間や動物は、いつだって尊重されるべきであって
いかなる場合にも、いかなる理由があっても
苦痛を与えられたり、殺されたりすることを認めない。

たとえ、10,000人の人間が治るからと言っても、それはそれ。
これは、これ。

マウス100匹にもちゃんと「命」がある。
苦しみがある、痛みがある。

だから、ちゃんと分けて考えなければならない。

それがトム・レーガンたち「権利論者」の主張になるんだ。

同じ【動物の権利】を主張している二人なんだけど
ボクは、トム・リーガンの主張のほうが、好きだな。
でも現実は・・・。

やっぱり、難しいよね。

参考文献:愛玩動物飼養管理士テキスト2級-1
参考サイト:道徳的動物日記

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