ねぇ、おかーちゃん。
おかーちゃんは、憶えてる?
ほんのわずかだったけど、ボクと一緒に暮らした
茶トラのボクの弟のこと。
おかーちゃんが「ニャ太郎」って名前を付けた、あいつ。
【ニャ太郎がやってきた日】
まだボクが5歳だったころ。
いつものように、おかーちゃんとお庭で遊んでいると、知らない猫さんに連れられて「ニャ太郎」がやってきた。
茶トラの猫だった。
仔猫というには、ちょと大きくて
でも、ボクよりはまだ小さいやつだった。
「ここでご飯貰えるから」そう言われてついてきたらしい。
テラスの下に潜り込んだまま、ボクたちの様子をうかがっていたけれど、おかーちゃんがお皿に入れたご飯をそーっとテラスの下へ入れると
ニャ太郎は急いでそれを食べ始めた。
食べ終わると、また知らない猫さんと一緒にどこかへ行ってしまった。
次の日も、
おかーちゃんとお庭で遊んでいると、ニャ太郎がコソコソとやってきた。
それからまたテラスの下へと潜り込むと、ボクたちの様子をうかがっていた。
でも、そこに居たのはニャ太郎だけだった。
ニャ太郎を連れてきた知らない猫さんがやってきたのは、ニャ太郎を連れてきたその日だけだった。
はじめのうちは、
ニャ太郎はコソコソとやってきては、ご飯を食べて、コソコソと帰っていた。
でもそのうち、
ご飯を食べてもすぐには帰らず、お庭にいる時間が増えて行った。
それでも、なかなかテラスの下から出てこようとはしなかった。
「あしょぼ」
ボクは、テラスの下にいるニャ太郎に声をかけた。
「・・・」
ニャ太郎は、恐るおそるボクたちに近づいてきた。
でも、おかーちゃんがちょっと手を伸ばそうとすると、すぐにテラスの下に潜り込んでしまった。
その日も、ニャ太郎はご飯を食べた後、テラスの下からボクたちの様子をうかがっていた。
ボクたちは、ニャ太郎に気づかないようにして、近くで遊んでいた。
気づいたら、
ニャ太郎がボクたちのすぐ横まで近づいていた。
「あしょぶ?」
「ぅん」
その日は、おかーちゃんが手を伸ばしても、ニャ太郎は逃げようとしなかった。
・・・クンっ。
ドアを開けっ放しにしていた玄関の中から、ふと、何かのニオイがしたらしい。
「どしたの?」
ボクが聞く。
「にゃに、このニオイ?」
ニャ太郎は、鼻をクンクンさせながら、玄関の中へとゆっくり入っていった。
「これにゃっ」
「・・・あっ。」
気づいたときには、遅かった。
ニオイの元が解ると、それを咥え、
急いでテラスの下へと潜り込んでいってしまった。
ボクがおかーちゃんと「ぷろれちゅ」するときに使う「またたび入りグローブ」が盗まれちゃった!
おかーちゃんもボクも、
怒るでもなく、ただただ唖然としてしまった。
ま。
ボクは別に、おかーちゃんの素手でもいいんだけど。
それは、おかーちゃんが痛がって、防護のために買ったやつだったし。
「また、別の買おうね」
「ボクは別に、素手でもいいよ」
おかーちゃんを見上げて言ってみた。
ニャ太郎は、テラスの下の手の届かないところまで運んでいくと、嬉しそうにその上で寝始めた。
【ボクのおとーと】
ボクが毛玉を吐きだしても吐きだせなくて苦しんでいた時、
ニャ太郎がずっとボクの傍で見守ってくれていたんだ。
ニャ太郎は、ボクにできた最初の兄弟だったんだ。
ニャ太郎が最初にボクのお部屋に入ってきたのは、
ある日の夕方、近所の空き地でボクと一緒に遊んでいた時だったよね。
「そろそろ、帰ろっかー」
おかーちゃんに言われて、ボクがお家に帰ろうとしたとき、
ニャ太郎がポツンとそこに座り込んだまま寂しそうな表情を浮かべ、離れていくボクたちを見送っていたんだ。
おかーちゃんがそれに気づいて、足を止めて振り返った。
「おかーちゃん?」
ボクも足を止め、おかーちゃんの顔を見上げると、
「ニゃ~ぁたっ!ニャ太もおいで」
おかーちゃんは手招きしながら、大きな声でニャ太郎を呼んだんだ。
その声を聞いて、嬉しそうにニャ太郎が走ってきた。
おかーちゃんは、ニャ太郎が追いつくまで待っていてくれた。
それからお庭まで一緒に戻り、玄関を開けてもらってボクがお家の中へ入ると、
ニャ太郎は玄関前でまたポツリ、座り込んでしまった。
「はいらんの?」
おかーちゃんは「ニャ太郎も入っていいんだよ」って言ったけれど
それでも、ボクと一緒に玄関から入ってくることはなかった。
おかーちゃんは、「しめるよ??」そぅ言いながら、ゆっくり玄関のドアを閉めた。
締まる瞬間、ボクは振り返って「また明日、一緒に遊ぼうね」
そう言ったけど。
玄関のドアが閉まると、ニャ太郎は急いで「ベランダ」からお部屋に入ってきていた。
「・・・ぇえええ~」
その日から、ニャ太郎の玄関は「ベランダ」になった。
ボクが毛玉を吐きだせずに苦しんでいたあの時は、
もしもボクに何かあるといけないと心配して、窓を閉められ、お家に入れてもらえない日もあったけれど
それでもボクの病気が治ると、おかーちゃんたちはニャ太郎がお部屋に入ってくることをなんとも思わなかった。
それでも最初は遠慮して、ちょっとお部屋でくつろぐと、
自分の寝床に帰って行ってたっけ。
でもそのうち、ボクのお家で過ごす時間が少しずつ少しずつ長くなって
いつしか朝まで、ボクの横で寝ている日が増えて行ったんだ。
その頃になると、
「もぅさ、ニャ太郎はウチの仔でいいんじゃないの」と、ばぁーちゃんが言いだしたので、ニャ太郎の去勢が決まった。
その時だった。
術前の検査で「残念ながらこの仔、キャリアです。どぅします?」、と獣医さんが切り出してきたのは。
ニャ太郎が「キャリア」ということが判明したんだ。
おかーちゃんは、その言葉にかなりショックだったみたい。
とはいえ、いずれにしてもニャ太郎は「去勢」をしなきゃならなかったから、
その日、ニャ太郎は入院となってしまった。
本来なら、今すぐボクから隔離しなきゃならないんだろうけれど、
ボクに寄り添うニャ太郎を見てきていたので、おかーちゃんは悩んでいた。
里親を探そうか・・・
その日の夜、おかーちゃんはそんなことも、考えたらしい。
でも「キャリアを持っている」というだけで、ニャ太郎はまだ発症はしていなかった。
獣医さんは「キャリアでも、その仔の持つ免疫が強ければそのまま発症しない仔もいる」と言っていた。
おかーちゃんは一晩悩んだけれど、
「発症しない仔もいる」という獣医さんの言葉にかけてみることにしたんだ。
それは危険な賭けだった。
どっちを選択したら後々、後悔するだろう。
今ここで、ニャ太郎と切り離すことのほうか、
最悪、ボクが感染しちゃうことのほうか
まだ発症しているわけじゃない。
発症しないかもしれない。
ボクとニャ太郎を離すことのほうが後悔しそうだ・・・と、おかーちゃんは覚悟を決めたらしい。
去勢を済ませ、お家に戻ってきたニャ太郎は、ボクの兄弟になった。
おかーちゃんの当時の判断は、
今、保護活動をしている人たちからしたら「ぞっ」とするものかもしれない。
【ボクとニャ太郎のお出かけルーティン】
ボクとニャ太郎の生活は、ちょっと変だった。
朝、おかーちゃんと一緒にボクがお庭に出ると、ニャ太郎は慌ててベランダから飛び降りてきた。
お散歩のお時間が終わってボクがお家に入ると、急いでベランダからお部屋に駆け込んできた。
「そんな面倒なことしなくても、一緒に玄関から出入りすればいいのに」
ボクは、そんなニャ太郎を見ながらいつも思っていた。
【ニャ太郎が持ってきた奇跡】
ボクは生まれつき腎臓のひとつがしぼんでいたらしく、
初めて受ける「ワクチン接種」前の血液検査で、腎臓の数値がものすごく悪かったんだ。
でも、腎臓病は治すことはできないらしく、おかーちゃんはかなり動揺していた。
治すことはできないけれど、進行を抑えることはできる、と、
ボクは「食事療法」と定期的な血液検査で様子を見ることになった。
最初は2か月に1度、血液検査をしていたけれど、
そのうち4カ月に1度のペースに変わっていた。
検査の結果、いつも「正常値」はそこそこ超えていて、良くなるわけもなかったけれど、
それでも「悪化」してるでもなかった。
ところが。
ニャ太郎と過ごすようになって最初の、4ヶ月に一度の血液検査で異変が起きた。
ボクの数値が正常値まで下がっていたんだ!
獣医さんもこれには驚いていた。
とはいえ。
レントゲンを撮った時、腎臓がひとつがしぼんでいることには間違いなかったので、
残っていたもぅひとつのボクの腎臓が、うまく機能しだしたのかも、とのことだった。
とにもかくにも。
ボクがこのお家に来てから、おかーちゃんたちに過保護に愛され過ごしてきたけれど
それでもボクはずっと「ひとりっこ」で、ずっと寂しかったんだ。
でもニャ太郎が来てからは、いつもニャ太郎が横にいてくれて、ボクは嬉しかった。
だから、ボクの残された腎臓のひとつが、頑張りだしたんだと思う。
ボクの腎臓の数値は、それからしばらく「正常値」のまま安定していた。
【今度はニャ太郎が】
ボクの腎臓の数値が安定し始めた頃、
今度はニャ太郎の様子がおかしくなったんだ。
それに最初に気づいたのは、おかーちゃんだった。
それは夏の暑い日だった。
お庭で一緒に遊んでいると、ニャ太郎が車の下で涼むようにグッタリと横になっていた。
けだるそうな表情で、白目が半分ほど出ていた。
起き上がれないわけじゃないけれど、歩くとなんだかフラフラしていた。
おかーちゃんはニャ太郎をすぐに動物病院へ連れて行った。
原因は・・・なんだったか憶えていないけど。
注射を1本打ってもらったら、すぐに良くなったんだ。
おかーちゃんは「もしかして発症した?!」と心配したけれど、
そうじゃなかったみたい。
【ニャ太郎との別れ】
ニャ太郎と過ごすようになって、どのくらいの日数が経っていただろう。
ボクたちは、いつも一緒だった。
ニャ太郎とあちこち冒険したり、カラスさんの落とした羽根で遊んだり、
毎日が愉しかった。
ただひとつ悔しかったのは。
ニャ太郎は木登りが得意だったけれど
ボクは木登りができなかったんだ。
いつも、おかーちゃんに抱っこして木の上に登らせてもらって、
抱っこで下ろしてもらっていた。
でも、虫さんを捕まえるのはボクのほうが上手だったけどね!
ベランダから入ってきて、二階の寝室でしか過ごしていなかったニャ太郎も
冬が本格的になる前には、居間までおりてきて、コタツの上で一緒に過ごすようになっていた。
おかーちゃんがお仕事に行っている間、寝室は暖房が無くて寒いから、
昼間はストーブのある、ばぁーちゃんが過ごす温かい居間がボクたちの居場所だった。
でも夜は、寝るお時間になると寝室へ上がって、おかーちゃんの毛布の上で一緒に寝ていた。
そうしないと、おかーちゃんが不貞腐れるんだもの。
あと、
一晩中、こっそり電気ストーブをつけていてくれたから、
実は寝室のほうが暖かかったんだ。
でも。
ニャ太郎と初めて過ごした「冬」が間もなく終わろうかとしていた、外の空気はまだまだ冷たいある朝。
もうすぐ夜は明けようとしていたけれど、まだ薄暗い中、ニャ太郎が部屋をこっそり抜け出した。
「ねぇ、・・・ちゃんと帰ってくるんだよ」
おかーちゃんは何かを感じたっぽかった。
お部屋を出ていくニャ太郎の背中に、そぅ声をかけた。
でも、その朝を最後に、ニャ太郎は突然帰ってこなくなったんだ。
それからボクは毎年、ワクチン接種の時に「キャリア」の血液検査もしてきたけれど。
16歳になるまで、一度も「陽性」になったことは、ない。
ニャ太郎からは感染することはなかったんだ。
ニャ太郎と過ごした日々は短かったけれど、
あの日、ニャ太郎が「キャリア」だからと怖がらなくてよかった。
あの日、ボクから隔離されなくてよかった。
ニャ太郎と兄弟になれてよかった。
【心にぽっかり空いた穴】
ニャ太郎が姿を消して、1ヶ月くらいが経っていた。
そのころには、日差しもポカポカしだしていた。
吹く風が、どこか心地よかった。
ボクとお庭で遊んでいる間、
ボクは時々、ニャ太郎の気配を感じて、遠くを見た。
ボクたちを見つけて、ふと、嬉しそうに駆け寄ってきそうな、そんな気がした。
時々、ニャ太郎に似た茶トラ子がお庭に来たけれど、やっぱりニャ太郎じゃなかった。
ニャ太郎が居なくなって、ボクたちの心はポッカリと穴があいてしまったようになったけれど、
春の風から初夏の風へと変わろうとしていた頃。
あいつらがやってきたんだ。
おかーちゃんが一言、「終わった」と言ったのを、ボクは覚えている。