ピーター・シンガーの【動物の権利】とトム・リーガンの【動物の権利】

【動物の権利】って、実にややこしい。
どちらも同じ【動物の権利】を主張しているんだけど、ね。

 

ピーター・シンガーが書いた【動物の解放】は、動物の権利運動が広がる火付け役となって、現在でも動物権利運動のバイブルとなっている。というのは、この前で話したとおり。

でも、ピーター・シンガーは、「動物と人間は平等に配慮されるべき」と主張しているけれど
「動物は生まれながらに権利が存在する」とは、実は言っていない。

 

ところが!

ピーター・シンガーと同じように「動物の権利運動」の倫理的指導者とみなされているアメリカの
「ノースキャロライナ州立大学哲学名誉教授」トム・レーガンは、1983年に出版された
The Case of Animal Rights(動物の権利の根拠)

動物を、人間が利用するために存在する資源とみなすようなそんなシステム全体に・・・

〇 商業的な畜産
〇 科学における動物の利用(実験)
〇 スポーツや楽しみのおける動物の利用

これら全てに反対し

動物は、
生まれながらにして固有の価値があって
生きる権利を持っているのだから、たとえ苦しみや痛みを与えないとしても動物を殺すことは出来ない!

「動物は権利を持っている」とはっきり主張して、ピーター・シンガーたち、功利主義者と論争も行っているんだ。

この論争は同じ「動物の権利」を主張しているのに「功利主義 VS 権利論」として表現されて、ちょこっと「ややこしい状況」になっているらしぃんだ。

動物の【道徳的地位】と【道徳的権利】をめぐる功利主義者権利論者の主張の【共通点】と【相違点】

 

ボクが今、読んでいて一番面白いと想っているサイト。「道徳的動物日記」に書いてあった例を紹介するね

 

まずは、功利主義者と権利論者の主張の中で、【動物は道徳的地位を持つ】という考え、想いは一緒。これはね、ボクたち「猫」を題材にした具体例なの。

猫が道徳的地位を持たない場合

人間の飼い猫 → 飼い主にとっての観点から間接的に、道徳的配慮の対象となる場合がある。たとえば、飼い主Aが友人に、「海外旅行に行っている間に猫の世話をしてくれ」と約束して、友人Bが承諾したなら、猫はBにとって「Aとの約束を守る」という道徳的義務のために配慮される。

野良猫 → その野良猫のことを気にかける人が存在しないなら、猫は道徳的配慮の対象となりえない。誰かがその野良猫を虐待して殺したとしても、その行為で他の人間に誰にも迷惑をかけないなら、その行為は道徳的な問題とならない。

 

猫が道徳的地位を持つ場合

人間の飼い猫 → 飼い主にとっての観点のみならず、飼い猫自身の観点によっても、
道徳的配慮の対象となる。Bは「Aとの約束を守る」という道徳的義務のみならず、
Aの飼い猫そのものに対しても義務を負う。Aも、自分の飼い猫だからといって好き勝手に扱うことはできず、飼い猫自身の幸福や利害に配慮しなければならない。

野良猫 → その野良猫のことを気にかける人が存在しないとしても、その野良猫自身の観点から、道徳的配慮の対象となる。
誰かがその野良猫を虐待して殺すことは、その行為で他の人間に誰にも迷惑をかけないとしても、その野良猫にとって危害であるから、その行為は道徳的な問題となる。

参考サイト:道徳的動物日記

人間にとっても、ボクたち猫にとっても【虐待される】ということは「危害」になることだし

人間と猫の両方が【虐待されないこと】についての「道徳的地位を持っている」というのは、納得できるよね。

じゃぁ、「選挙で投票する」ということを例にしたら?

現代の民主主義の中で生きる人間が、投票することで政治に参加できるということは責任ある「市民」として生きてる。という意味あることで「選挙に参加できるかどうか」というのは、人間にとっては、ものすごく大事なコトだよね。

もし「選挙権」を取り上げられたら、それは人間として認められてない。と言っても過言ではなく。

 

宇宙-sora-
宇宙-sora-

(おおげさ、かな)

だから人間が「選挙で投票すること」ということは道徳的地位がある。

 

 

宇宙-sora-
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でも、ボクたち猫は?

 

どこの国でもボクたち「猫」は、選挙で投票するっていうことはないし、政治に参加することもない。責任ある「市民」として生きることもない。選挙で投票できるかどうかなんて、ボクたち猫が生きていくうえではどうでもいいコトだから、猫が「選挙で投票すること」という例えの中では、道徳的地位があるとは考えられないし

無意味だよね。

つまり、功利主義者と権利論者の主張の中で「動物は道徳的地位を持つ」ということでは同じ意見なのに「どれほどの道徳的地位がある」か?ということでは異なる意見になっちゃうんだ。

 

 

ピーター・シンガー(功利主義者)は人間でも、動物でも、

平等に配慮されていてそこに「正当な理由」があるのなら、苦痛を与えたり、殺しちゃうことは致し方ない。

という考えを持っているんだ。

 

 

宇宙-sora-
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次は有名な?トロッコのお話。

Aの線路には5人、Bの線路には1人いて、そこに暴走したトロッコが突っ込んでくる。
このまま行けば、5人がいるAの線路に突っ込んでいく。でも、スイッチを切りかえればトロッコはBの線路に。
Bの線路には1人いるけれど、このままAの線路に突っ込ませて5人が死ぬと考えれば、Bの線路に切り替えれば1人の命の犠牲で済む。

5人を助けるためなら1人を犠牲にすることは、その殺害を容認できる正当な理由だっていうんだ。

 

宇宙-sora-
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本当に、そうなのかなぁ?

 

動物実験だって、そうだよね。

100匹のマウスの命が犠牲になることで、1,000人、10,000人の人間の「病気」を治す新薬が【確実に】作れる。

「作れるかもー」 じゃなくて「確実に作れる」んだ。

1,000人、10,000人の人間を助けることができる。でももしマウスの犠牲がなければ、その人間を助けることができない。

だからこの場合、マウス100匹が実験で苦しむのは仕方ないよね。

 

というのは、マウスの命を犠牲にすることを容認する正当な理由だ。っていうんだ。

つまり「どちらの答え」を選んでも「道徳的地位を持つ存在」、人間や動物が危害を受けることが避けられないのなら、その被害を出来る限り少なくして「最善」の結果にしなければならない。

というのがピーター・シンガーたち「功利主義者」の主張なのね。

でも、トム・レーガン(権利論者)はその主張を否定して

 

人間や動物は、いつだって尊重されるべきであって
いかなる場合にも、いかなる理由があっても
苦痛を与えられたり、殺されたりすることを認めない。

 

たとえ、10,000人の人間が治るからと言っても、それはそれ。

これは、これ。

 

マウス100匹にもちゃんと「命」がある。
苦しみがある、痛みがある。

 

だから、ちゃんと分けて考えなければならない。

それがトム・レーガンたち「権利論者」の主張になるんだ。

 

 

同じ【動物の権利】を主張している二人なんだけど
ボクは、トム・リーガンの主張のほうが、好きだな。
でも現実は・・・。

難しいよね。

 

 

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参考文献:愛玩動物飼養管理士テキスト2級-1

参考サイト:道徳的動物日記

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